【Pick Up Owner #3】山崎賢一|孤独に泣いた日々を音楽に救われ、唐津からみんなに元気を届けるシンガーに
佐賀県唐津市出身のシンガーソングライター、山崎賢一。2016年4月にアーティストとしての活動を開始してから、今は唐津を拠点としてソロで活動を展開。キーボードやギターの弾き語りなどの音楽活動だけではなく、唐津のケーブルTVの番組リポーター、九州・沖縄の道の駅アンバサダー、唐津ミュージックフェスティバル主催など、幅広い活動で多くの人に元気を届けている。自身のファンクラブ「SunFlowers」の名のごとく、ひまわりのように輝く笑顔、そして心を温かく包み込むような楽曲や歌声が魅力的なアーティストだ。
今回のインタビューでは、自分もかつて音楽に救われた一人だったと語る山崎賢一がアーティストとしての道を歩むきっかけとなった苦い過去から、自身のパワーの源でもあると語る「SunFlowers」の「ファミリー」に対する想い、そして、この先の野望まで、彼の心の内に秘めた想いを訊いた。
■毎日孤独に泣いていた日々を音楽に救われ、音楽を届ける側に。
ーーー山崎さんは元々サッカーをされていて、小学校からずっとサッカー選手を目指されていたそうですが、何をきっかけに音楽活動を始められたのでしょうか。
サッカーをしていた頃も音楽は好きでしたけれど、友達とカラオケで歌うくらいでした。ピアノとかを習っていたわけじゃないですし。当時はほんとにサッカーしか頭になかったんですよね。
ただ、現実的にサッカーではプロにはなれなくて、そこで挫折を味わいました。それが高校卒業したくらいだったんですけれど、生きてごはんを食べていくためには仕事をしなくちゃいけないじゃないですか。そこで初めて就職したんですが、就職先が九州ではなくて、千葉県だったんです。
当時18歳というものあって今思えば自分の考えが甘かったんですが、夢を目指して頑張ってキラキラしていた高校生活からいきなり社会人の責任がある生活がのしかかってきた時に、プレッシャーとか色んなものに耐えきれなくなりました。今みたいに明るく喋れる感じじゃなくて、180度違うめちゃめちゃ暗い人になってしまって。
その時、周りの友達は大学に行ったりしつつも、大体みんな九州に残っていたんですよね。だから近くに頼れる友達も知り合いもいませんでした。仕事が大変でも、会社の寮に住んでいたので帰ったら職場の人達とまた一緒みたいな。そこでズドンと精神的にきてですね、毎日毎日泣いていたんですよ。今でこそこんな感じですが(笑)
だから、自分の部屋にこもって、イヤホンを耳に入れて音楽を聞いて現実逃避していました。次の日の仕事までずっと音楽を聞いているみたいな。そんな状態でした。
そんな時に、たまたま同じところでサッカーやっていた先輩の「シンガーソングライター目指します」みたいなFaceBookの投稿を見つけまして。仕事で疲れたり人間関係で疲れたりしている中で、自分にとって一番の救いが音楽だったので、自分で音楽を作って、自分のような日々疲れている人に音楽を届けられたらいいなと考えるようになりました。そこで初めて音楽をやろうかなと思いました。
ーーーいつも笑っていらっしゃるのであまり想像できませんが、そうした背景があったんですね。だいぶ遅咲きと言ったら語弊があるかもしれないですが、「2歳からバイオリン弾いていました!」みたいな、よくある流れではなかったんですね。その後はどのような形でデビューされていったんですか。
そうですね。僕は今もメジャーデビューしているわけじゃないので、インディーズって括りに入ると思います。ですので特に正式なデビューとかはないんですよね。さっきお話した音楽やっていこうかなと思った時期が大体19歳くらいで、その時には具体的に何をしていったらいいのかわからなくて。とりあえず、ボイトレのレッスンみたいなところにいったり、カラオケで練習したりとかしていました。
そんな状況だったんですが、22歳だった2016年4月に、僕の同級生から「賢一って音楽したいって言っていたよね。俺もやりたいっちゃんね。」と連絡がきまして。そのタイミングで関東の生活を全部やめて、九州に帰ってきて、友達と一緒に音楽を始めることにしました。そこから自分の曲をちゃんと作って、ライブをしていきました。だから、僕のデビューは2016年4月になるのかもしれません。
■初めて作った曲が、大好きな人が笑ってくれる幸せを歌った『君が笑えば』
ーーー当初はどのような形で音楽活動をされていたんでしょうか。
その時はライブハウスとかライブバーに飛び込んで「歌わせてください!」みたいな感じでしたね。行ったら行ったで、マスターに「お前ら下手だから練習してこい!」みたいに言われて(笑)めちゃくちゃ断られていましたね。
僕がボーカルオンリーでもうひとりの友達がギターを弾いてくれて。二人組ユニット「Leben Core」という形でやっていました。そこから他にもメンバーが入ってバンド編成になったりもしたんですが、みんなの仕事の都合もあって最終的に僕一人の今の形になりました。
ーーー今はご自身で作詞作曲されているんですよね。どうやって20歳過ぎてから、ギター、ピアノを覚えたのでしょうか。作詞はともかく作曲ってなかなか難しいと思うんです。
そうですよね。僕の最初の曲『君が笑えば』って曲があるんですが、この曲はギターを弾いて色々な人にアドバイスをもらいながら作りました。これが僕の生まれて初めて作った楽曲です。はじめは自分でコードを勉強しながら、一曲ずつ作っていきました。
ーーー『君が笑えば』ってこんなに素敵な曲が一曲目ってすごくないですか。楽曲に対してどういう思いを込めて作られたんでしょうか。
最初の楽曲だというのもあり、自分の暗かった時代のこととかを思い浮かべながら作っています。自分に向けて歌っているわけじゃないですけど、自分と同じような人がいるということを想ったり、あとは大切な人を想いながら作りました。その時は、家族、お母さんとかが思い浮かんでいましたね。大好きな人が笑って隣にいてくれる、それだけで幸せなんですよね。たとえ辛いことがあっても笑ってほしい、一緒に頑張ろうねとか。そういった思いを込めて『君が笑えば』という曲を作りました。
ーーー今、デビューから5年4ヶ月経って、何か音楽性の変化やスタイルの変化はありましたか。
ボーカルだけのユニットからスタートして、そこからバンド編成になって。当時僕はボーカルだけの担当だったんですが、ベースが仕事で出られませんとか、ギターのスケジュールの都合が悪いとかで、ライブの機会を断らなきゃいけないのがもったいなくて嫌だったんですよ。せっかくそこで掴めるかもしれないチャンスとか、新しく応援してくれる人を逃してしまうんじゃないかと思って。
その頃から、自分一人でライブができるように弾き語りも練習していって、今は一人で活動するスタイルになっています。もちろん、サポートしてくれるマネージャーさんやスタッフの方はいますが。
今のスタイルになってマネージャーと出会ったことで、世界に向けて発信していくことも考えるようになりました。具体的に目標を決めていたわけではないですが、マネージャーのご主人様がイギリスの方というのもありましたし僕も元々R&Bが好きだったので、いつか海外に行きたいという思いがあったんですよね。
この5年間の変化で言うと、英語の歌詞のオリジナルソングを作ったりもしましたし。もっと英語を勉強して、全て英語の歌詞でたくさん曲を作っていきたいです。
あとは、もっとダンス・ミュージックを作りたいと思っています。今までは自分の感性や自分の中にあるものだけで曲を作ってきましたが、これからはダンスとか、もっとジャンルを意識した曲作りをしていきたいです。別にダンサーになるわけじゃないですが(笑)たとえば、僕が歌って、後ろで誰かが踊ってくれるような曲をやってみたいですね。
ただ弾き語りだけでライブをやるのではなくて、もっと総合的なエンタメを届けられればと思っています。弾き語りをやったりハンドボーカルで踊りを入れたり、そういったことを今から準備していけば、コロナが終わった頃にはライブの見せ方も変わってくるんじゃないかと考えています。
■誰かがいなかったら、僕の音楽って成り立たない
ーーーライブだけではなく、ラジオをされたり、テレビをされたり、音楽問わずいろいろな活動をされていますが、ご自身にとってファンとはどういった存在なのでしょうか。
音楽活動を始めようと思ったきっかけが、音楽に寄り添いたい人や音楽を求めている人に向かって、音楽を発信するところにあって、それが僕の根本だと思うんです。一人でカラオケを歌っていればいい、とかじゃないんですよね。お客さん、聞いてくれる方、それがファンじゃなかったとしても、誰かがいなかったら、僕の音楽って成り立たないんですよ。ただの自己満足になってしまうので。僕としては自分の曲を聞いていただいて、少しでも心に残ってくれたらいいなと思っています。
聞いてくれる人が一人ずつ少しずつ増えてくることによって、僕自身が逆に元気をもらえますよね。昔は僕のSNSにコメントなんてなかったですけど、今はコメントをいただけたりします。そこが僕のパワーになったりしています。
きついとき、苦しい時に、今はファンと一緒に乗り越えられるというのがありますね。昔は自分でやっていくしかないという一匹狼だった部分もあったんですが、今は助けてくれる人、応援してくれる人がいて、すごくパワーをもらっています。その方々がいるといないとでは、大きく違うと思います。
ーーーファンクラブ「SunFlowers」の紹介に、「ファミリークラブ」と書かれていますが、このファミリーという書き方にはこだわりを感じています。どのような意味があるのでしょうか。
僕はあまり「ファン」と言いたくないんですよね。ライブとか特にそうなんですけど、「頑張れ!頑張れ!」みたいな一方通行が嫌で。それが悪いことではもちろんなくて、むしろ良いことだと思うんですけど、僕は「一緒に頑張ろうね!」というのがいいんです。
それぞれの道があって、僕、山崎賢一は音楽の道を頑張っていて、みなさんはそれぞれの道を頑張っている。そんな、「みんなで一緒に頑張ろう!」っていう雰囲気がいいんです。「ファン」といってしまうと、一方通行な感じがするので。僕がアーティストだから立場上で言うわけではなく「ファミリー」として、みんなと同じ立ち位置でいたいなという思いがあります。
ーーー「SunFlowers」の月額がお安いじゃないですか、165円って。月額500円とか1,000円とかいう方が多い中で、毎月ペットボトル一本で配信ライブが観られるのはすごいですよね。
取っ掛かりとして、みんなが入りやすい金額を設定しています。コロナでライブができなくなっているじゃないですか。移動もなかなかできないですし。ただ、僕たちも音楽を仕事として5年間やってきているのもあるので、完全に無料にするというのは控えようと思っているんです。だから、ペットボトル1本分の金額で配信ライブが月1回見られますよっていう、ほんとそんな感じです。
収益を考えたら、300円、500円に設定するのがいいのかもしれないですが、色々葛藤した結果、僕はコロナでライブに行きたいけど行けないっていう人、コロナで打撃を受けている人に向けて、この165円という金額でちょっと小銭をいただく形にしています。お金をいただいているのでプロとしてライブはしっかりやります。
ーーーライブだけじゃなくて、ブログを書かれたり、ラジオを毎週配信されたり、積極的に活動をされていると思うのですが、その中でも、クローズドな「SunFlowers」の会員に対して発信することって、ファン、ファミリーのことを大切に思われているように感じました。「SunFlowers」の活動についてご自身ではどのように感じていますか。
僕は楽しいですね。元々ラジオ的なものをBitfanでやりたいと思っていたんですよ。そうしたら、たまたまBitfanでラジオ機能が付いているのを見つけて、そこですぐに始めました。
ラジオパーソナリティとしてのラジオだと収録が必要だったりするので、ライブで東京に行っている時なんかはできなかったりするじゃないですか。でも、ラジオは続けていくことが大事だと思っていて、自分のスケジュールだとかを色々考えた結果、朝7時にBitfanでラジオ配信をすることに決めました。ここだったらいけるかなって。ラジオもたとえば音響にめちゃくちゃこだわるとか、もっとこだわろうと思ったらできると思うんですが、でもそれって家に機材がないとできなくて、しかも出張先ではできないじゃないですか。だったら、ケータイ一つで投稿できるBitfanでラジオをやることに僕は決めました。
ーーーラジオ配信はその場の思いつきで喋られているのですか。それともシナリオがあるのでしょうか。
冒頭とライブの告知に関しては事前に考えていますが、あとはほぼアドリブですね。ただ、眠たくなると話が続かなくなっていくというか(笑)
■人のために何かをやれる今が一番幸せ。コロナ禍でも唐津から世界に向けて着実に。
ーーー音楽に限らなくていいのですが、人生を考えた時に幸せな生き方、自分にとって実りのある人生ってどういうものだと思われますか。
綺麗事と思われるかもしれないですけど、人のために何かをやれるって一番幸せだなって僕は思っているんです。もちろん、自分に余裕が無い時にはできなくて、自分の器の小ささを感じることもたくさんありますが。でも自分のためにというか、たとえばお金だったら誰かのお土産を買うために使うとかの方が後々自分に返ってきたりもするし、最終的にそちらの方が幸せだなと感じることが多いです。
僕は今が一番幸せかなと思います。人のために動くこと、ありがとうを伝えることを大事にしています。ありがとうって、何回言ってもいいわけですし(笑)
人生戻れたらいつに戻りたい?みたいな質問もたまに聞かれるのですが、戻れると言われても戻らなくていいかなと思っています。今が一番幸せですし、戻ってもきっと僕なりに一生懸命、試行錯誤しながらやっていくので、多分戻ったとしてもここにまた帰ってくる気はするんですよね。
かつて音楽をやっていた先輩が亡くなった経験があるんですが、自分もその現場にいて、本当に人が亡くなるのを初めて目の当たりにしました。その時、精神的に落ち込んだりもしましたが、当たり前の日常ってないんだなということに気づきました。たとえば、コロナだってそうじゃないですか。誰もが予想してなかったですし、まさか、志村けんさんが亡くなるなんて。だからこそ、感謝の気持ちは伝える、会える人には会う、ということを大事にしています。僕自身まだまだできてはいないですが、そういった気持ちを持って生きていけたらと思っています。
ーーー感謝の気持ちや人との繋がりに関係するかわかりませんが、ずっと唐津という地元を拠点にして活動されている理由や想いはどういうところにあるんでしょうか。
これはまとめると一言になってしまうんですが、やはり唐津が好きってことになってしまうんですね。地元が好きってことだと思います。帰って来られる故郷というのが自分にとって一番心地がいいというか。だから、唐津に家は持っておきたいというのがあります。東京は格好いいですし東京に1,2週間行くとかもありますが、帰ってくるところは唐津だという感覚があって。唐津を拠点に音楽を頑張ろうと思っています。
ーーー東京が全てじゃないにしても、野望や夢や野心を叶えるという点では東京にも魅力があると思います。それでも唐津なんですね。
東京より先に世界へ。まだそんなに大きいことは言えないですけど、唐津から世界に挑戦しています。仕事として東京には行きたいけれど、あくまで唐津ですかね。心境の変化があれば拠点は変わるかもしれません。ただ、今はまだ唐津にいたいと思います。
唐津はほっこりしますし、地元にいる方が自分のやりたいようにできるところもあるので、敢えて今みたいな活動を選んでいる感じですね。あとは僕が音楽を始めた頃に東京で少し活動していたというのも理由の1つとしてあるかもしれません。これまでに東京での活動を経験してなかったら、今も東京に行きたいと言っていたかもしれませんし。
ーーー今年は、山崎さんが代表をされている「唐津ミュージックフェスティバル」の4回目が開催できなかったと伺いました。去年は何とか開催されたのですよね。
そうですね。今年は中止になり、去年はもうぎりぎりで開催できました。唐津市とタッグを組んでやっているところもあるので、唐津市でコロナの感染が出たらもう前日だろうと中止にしようという話になっていたんですけれど、去年は何とかぎりぎり開催することができました。
ーーー1年半ほどのコロナ禍で思ったことや、コロナ禍だからこそできたチャレンジはありますか。
僕もコロナ以前は、毎月めちゃめちゃたくさんライブが入っていたんですね。それがコロナ禍でもう十分の一くらいに減ってしまって。最初はもちろんコロナのせいにするわけじゃないですが、本当にライブできなくなったらどうしようと思うことがありました。
でもやっぱり、ライブだけじゃないじゃないですか、音楽って。それこそ楽曲を制作したりとか。あと、今はSNSの時代というのもあってYouTubeとか、そういったことにも力を入れることができるなと。ライブはできないけれど、その分、楽曲制作だったり「SunFlowers」の活動もやってみようかなって。コロナが収まった後に向けてこれからも準備を続けていこうと思っています。
あと、コロナの期間で一番チャレンジできたことは、英語で楽曲を作ったことですかね。他にも、配信ライブもやりましたし、MVも作りました。コロナ以前まではライブをたくさんやっていたので、MVもあまり撮れなかったんですよ。
このコロナ禍で運よく良いカメラマンさんにも出会えました。その方がコロナの時期だからこそと価格をお安くされているのをたまたま僕たちが見つけて、そこから仲良くなって。先程お話した亡くなられた先輩に向けた『Run』という曲のMVを最初に撮ったんですが、このMVが僕とマネージャーの間でめちゃくちゃいいね!という話になり、そこから月に1本くらい、2021年4月からMVを出しています。
MVのロケーションは、ほとんど佐賀か福岡です。唐津の方からは親近感があると言われますね。唐津ってあまりMVに出たりすることがないので、地元の方からは「出て嬉しい」「ありがとう」みたいな声をいただくこともあります。
ーーー最後に、今、これを読んでいるみなさんにお伝えしたいことはありますか。
コロナでライブができない中、SNSとかやれることは色々ありますが、でも、やっぱりまた生ライブをできる日が戻ってくると思います。もちろん、今も動員制限など規制がある中で戻ってきてはいますが、やっぱり以前と同じような形でやれる日がいつか戻ってくると僕も信じています。
その時まで、いや、その時以降も、僕自身めちゃめちゃ腕を磨いて頑張ります。SNSでは絶対に伝わらないところがあると思いますので、そこを観覧無料ライブでもいいですし、お近くにきてくれた時でもいいですし、この記事を読んでいるみんなに、早く生ライブに遊びに来てほしいですね。
■山崎 賢一 (Kenichi Yamasaki)/PROFILE
・九州・沖縄 道の駅公式アンバサダー
・佐賀県唐津市出身のシンガーソングライター
・唐津ミュージックフェスティバル 代表取締役オーガナイザー
・株式会社唐津ケーブルテレビジョンぴ〜ぷる放送【若者にYELL】TV番組リポーター
2016年に音楽活動をスタート。2018年よりソロのキーボード弾き語りで福岡、佐賀、全国各地でLIVE活動中。2019年みやきMUSIC FESTIVAL、宗像フェスティバル、福岡クリスマスマーケットなど人気音楽イベントに出演。
2020年1月地元での初ホールワンマンコンサートソールドアウト。
12月KBCラジオ「マルボシ酢 アスキーPresents HAKATA SOUND FLY」ミュージック・バトル12代目グランドチャンピオンとなる。同月、マリンメッセ福岡ドリームステージにも出演。2021年2サガテレビに2回生出演。7月にはイギリスのロンドンにて開催日本最大のイベント『HYPER JAPAN ONLINE 2021』出演。
ストレートな歌詞とソウルフルな歌声は心に浸透する寄り添い系アーティストと呼ばれている。
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ONLINE FAMILY CLUB『SunFlowers』:
====Live Information================
2021年10月16日(土曜日)
【筑後川のめぐみフェスティバル】
[出演時間]①12:30〜12:55 ②15:15〜15:40
[会場]福岡市役所西側ふれあい広場
観覧無料!
2021年10月17日(日曜日)
【秋まつり2021鳥栖良かとこウォークラリー】
[演奏時間]11:30~12:00
[会場]鳥栖まちづくり推進センター 集会室
佐賀県鳥栖市今泉町2172-2
観覧無料!!!!
2021年10月31日(日曜日)
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