【前編】“ここじゃないどこか”へと連れていく逃避行サウンド。一十三十一のルーツを辿る|DIGLE MAGAZINE
<目次>
▶︎ 北海道の中にある、西海岸の世界
▶︎ 呆然と立ち尽くした
DIGLE MAGAZINEとオールインワン型ファンメディア『Bitfan』が送る、“アーティスト活動”にフォーカスしたインタビュー企画。アーティスト選曲のプレイリストと共に、これまでの道のりやファンとの関係について掘り下げます。
(本記事は、DIGLE MAGAZINEに掲載された記事の転載です。)
今回はシンガーソングライター・一十三十一が登場。前編をお届けします。
一十三十一の音楽を聴いていると、夢の中にあるリゾートへと誘われるような、心地の良いトリップを味わえる。日常と地続きの場所でありながら、確かに煩雑な現実とは一線を画した異空間…こうした束の間の逃避行こそ、ポップミュージックから受け取れる最良の時間のひとつだろう。「“ここではないどこか”へ連れていく、開放感のあるサウンド」が理想という彼女は、これまで持ち前のセンスと多くの気の置けない同志と共に、良質な作品をいくつも発表してきた。中でも2012年にリリースした『CITY DIVE』は、10年代シティポップにおける素晴らしき1枚だ。
今回のインタビューでは彼女のポップソング原体験を出発点に、その音楽遍歴を辿る取材を試みた。キャリアの転換点となった『CITY DIVE』の制作背景や、先日立ち上げたファンサイト「toi toi toi」についてのエピソードなど、少し足早ではあるがたっぷりと語ってもらっている。なお、インタビューの最後には、「BIGSUN on my mind -80’s only-」と題したプレイリストも用意してもらった。そちらも併せて是非一十三十一の世界を楽しんでもらいたい。
■ 自然体な音楽が好き
ーーー一十三十一さんは、作詞に関してはどなたからの影響が強いと思いますか?
両親が私の生まれた78年から、北海道でトロピカルアーバンリゾートレストラン・BIG SUNを始めたんですね。そこでは山下達郎さんや大滝詠一さん、吉田美奈子さんや大貫妙子さん、そしてユーミン(松任谷由実)などブリージンな音楽がかかっていて、言うなれば生まれる前から聴いていました。
リアルタイムで聴いていたのが『DAWN PURPLE』、『TEARS AND REASONS』、『U-miz』辺りで、中学生の時はコンポから流れる『DAWN PURPLE』を聴いて目覚める朝でした(笑)。作詞に関しては、子供の頃から今なおインスパイアされているのは、ユーミンさんてことになりそうですね。
ーーー素晴らしい(笑)。
達郎さんや大滝詠一さんの音楽から感じる、“ここじゃないどこか感”みたいな世界観も、ずっと憧れています。北海道に住んでいながら、両親がバリバリの西海岸の店をやっていたので、いわゆる北海道の感じとは違っていて。
365日アロハシャツみたいな世界で、雪が降ろうとうちは気持ち良い風が吹いている、みたいな環境だったから(笑)。ちょっとトリッピーな感じが私のルーツにはありますね。
ーーーなるほど。
ただ、思春期になると私の趣味が渋谷系に突入していくんですね。お兄ちゃんがフリッパーズ・ギターのファンで、その影響で私も中三の終わりから高校にかけて、どっぷり傾倒して。渋谷系の音楽全般的にだったり、ORIGINAL LOVEもよく聴いていました。特に高校時代は、小沢君(小沢健二)のことしか考えてなかったと思います。
ーーー(笑)。今やコーラスを担当されているから凄いです。
19年の時を経て、彼のアルバムに自分の声が入っているのはちょっと信じられない事件です。
ーーー小沢さんの楽曲のどんなところに魅力を感じていました?
犬(『犬は吠えるがキャラバンは進む』)も大好きでしたけど、よく聴いたのは『Eclectic』です。言葉遣いも独特で面白いし、ポエティックだけど邪魔にならないというか。言葉がサウンドに馴染みつつ、それでも主張してくる感じが素敵です。
ーーーなるほど。
日本語って言葉が強いから、ダンスミュージックに乗せるのはちょっと難しいですよね。でも『Eclectic』はそこが絶妙なバランスで成り立っているんです。コーラスワークも斬新だし、サウンドの透明感も聴いたことがなかった。NYで録ってるせいか、“日本じゃない異国のどこか”みたいなムードがあって、その頃小沢君が住んでたであろう土地の空気を感じられる。今でも凄く好きなアルバムです。
■ 呆然と立ち尽くした
ーーー一十三十一さんが音楽を始めたのはいつ頃ですか?
高校生の時に自宅の地下で作り始めました。お兄ちゃんが作曲をして、そこに私が作詞をするという工程だったんですけど、多くはお兄ちゃんが作っていましたね。音楽性は当時聴いていた渋谷系の感じではなく、はっぴいえんどや美奈子さんの初期の頃のような、フォーキーなポップスを作っていました。
ーーーその頃から音楽を志す気持ちはあったんですか?
最初は誰に聴かせるわけでもなく、お兄ちゃんと趣味で作っていただけですね。歌手になろうとも思っていなかったし、ずっとキャビンアテンダントになるつもりだったんで。でも、私も言葉を綴るのは好きだったし、お兄ちゃんがやろうっていうので、自宅の地下のサウナ室で録音していました。
ーーーサウナ室?
地下にサウナ室があったんですけど、誰も使ってなかったので、壊してボーカルブースにして。それからお兄ちゃんが新聞にある読者の募集欄みたいなところで楽器を掻き集めて、全て生楽器で録ったものをサンプリングして作っていました。
ーーー凄い…!
でも、大学に入ると夜のクラブ活動が私の中で盛んになってくるんですよね。そこでプレシャスホールとかに遊びに行くと、イケてるDJがイケてるソウルとかハウスとかダンスミュージックをかけていたり、ヒップホップのクルーと仲良くなったり。で、私もライブをやるってなると、自ずとバンドじゃなくてヒップホップのクルーと一緒に演るようになっていって。レコードをかけながらラッパーと一緒に私もフリースタイルで歌うみたいな、友達のダンサーに踊ってもらったりそういう時代に突入するわけです。
ーーー聴く音楽も自ずと変わっていくと。
ユーミンや達郎さん、渋谷系を経て、その後ダンスミュージックに流れていきましたね、ざっくり。お兄ちゃんと曲を作ることがなくなっていって、仲間と一緒にヒップホップとダンスミュージックが合わさった感じの音楽を作るようになっていたんですけど、そこでブラックミュージックに心酔します。
ーーーなるほど。
その音楽のルーツを体感したいと切に思うようになって。二十歳の頃にボイストレーニングを口実に親を説得して、ニューヨークに三ヶ月行って。ただ、それでも歌手になるリアリティはなかったんですよね。
ーーーどこで切り替わったんですか?
ニューヨークに行ったら住みたくなってしまって、帰る頃には学校も探していたし、大体住む場所も決めていて。向こうに移住したい気持ちを両親に伝えたら両親も、その時に遊びに来たニューヨークを気に入っていたみたいで。
ーーー西海岸の店をやっていたけど、東海岸も好きになったと(笑)。
そうなんです(笑)。そのままマジックスパイスのNY支店を作ろうっていう大移動計画になって。両親も物件を見に行ったりしてたんですが、そんなオープンの準備に入るちょうどその頃テロがあって。
ーーー9.11ですね。
茫然と立ち尽くしました。それで私たち家族も今行くのはリスキーだよねって話になり。それまでの行こうと思っていたこのエネルギーをどうしてくれようって思いながらも、地元のヒップホップのクルーたちと相変わらずクラブでライブしていて。そんなある日、たまたま忘れ物を取りにきた東京の某事務所の方が、私のリハを目撃して、後日連絡を下さり。私もちょうどエネルギー有り余ってたんで、これは東京でデビューする流れなのかもって、そこで初めてリアリティを感じたかな。
(『DIGLE MAGAZINE』編集部 文: 黒田 隆太朗/写:井出 眞諭/編:黒田 隆太朗)