【前編】自由を謳歌するYeYe。独立独歩で始まった10年と、変わり続けるこれから|DIGLE MAGAZINE
DIGLE MAGAZINEとオールインワン型ファンメディア『Bitfan』が送る、“アーティスト活動”にフォーカスしたインタビュー企画。アーティスト選曲のプレイリストと共に、これまでの道のりやファンとの関係について掘り下げます。
(本記事は、DIGLE MAGAZINEに掲載された記事の転載です。)
今回は京都を拠点に活動するシンガーソングライター・ YeYeが登場。前編をお届けします。
「活動スタイルにシンパシーを感じるアーティスト」というテーマで、YeYeにプレイリストを作ってもらった。シンガーソングライターによる柔らかい音色が耳を癒し、東郷清丸の湿り気たっぷりのファンクやCHAIの「アイム・ミー」が身体を刺激し、大所帯バンド・Broken Social Sceneの音が心を震わせ、たおやかなポップへと帰結していく…なるほど、まさしくYeYeの音楽に通ずる10曲である。中でも影響を受けているのがErlend Øyeで、ズバリ彼こそがYeYeの活動モデルだという。どちらもオーガニックな音に魅力があり、どちらも環境を変えることで音楽を育み、そしてどちらも冒険心を持って音楽に接する作家である。
すべての作詞作曲、演奏までを自身で行ったデビュー作、『朝を開けだして、夜をとじるまで』で始まった彼女のキャリアは、ゆるやかだが変化の歴史であった。「名義を変えて活動したい」とは一見思い切った発想に思えるが、それは彼女が10年のソロ活動の中で掴んだ「次なる10年」への確信なのだろう。そうした理想のヴィジョンについて、京都で暮らす彼女にリモートでの取材を試みた。足早にキャリアを辿っていく中で垣間見えたのは、彼女の根っこにある反骨心だった。
■ 名前を変えてなんでもやっちゃう
ープレイリストに入っている10組のアーティストは、YeYeさんにとってどういう音楽家ですか。
システムとかルールに囚われず、シンプルに好きなことをやっている音楽ですかね。
ーそうした自由さって、YeYeさん自身も活動で大事にしていること?
ですね。
ー音楽家にとっての自由って、どういうものだと思いますか。
誰にも指図されないこと、かな。音楽が世の中に出ていくためには絶対に音楽家だけの力では無理やし、いろんな人の力があってやっとできることなんですけど、そこでちゃんとバランスを取れているかが大事やと思います。
ーつまり周囲の力を借りながらも、自分の真ん中にあるものはブレちゃいけないと。
そうですね。
ーでは、このプレイリストの中で特に影響を受けている音楽はありますか。
プレイリストに唯一2曲入っている人がいて、私が一番シンパシーを感じているのが Erlend Øye です。
ー彼のソロ作から1曲と、あとはThe Whitest Boy Aliveの曲ですね。
はい。
ー今着てらっしゃるTシャツもThe Whitest Boy Aliveですね?(笑)。
そうなんです(笑)。 It’s a Musical と一緒にツアーを周ったことがあるんですけど、彼らは昔 The Whitest Boy Alive の前座でツアー周ったことがあるらしく、このTシャツをエマが着ててめっちゃ可愛いやんって思って。私もネットで買いました。
ーErlend Øyeの音楽のどんなところに惹かれていますか。
元々 Kings of Convenience が凄く好きで、そこからThe Whitest Boy Aliveも聴くようになり、彼のソロ活動を追うようになったんですけど。Erlend Øyeはいろんなプロジェクトを進めながら打ち込みのDJもしていて、いろんな国を渡り歩きながら何にも囚われずに音楽をやっているんですよね。私はそれを、これからの自分の活動のヒントにしていきたいと思っています。
ーというと?
YeYeって名前で10年間音楽をさせてもらっているんですけど、YeYeの中には弾き語りもあれば打ち込みもあるし、バンドみたいな大所帯もあって。私もErlend Øyeのように名前を変えて、一つひとつコンプセチュアルなものとして表現した方がやりたいことが伝わるんじゃないかなと思うんです。
ー逆に言うと、伝わっていないんじゃないかという気持ちがある?
自分がやりたいことは弾き語りばかりではないのに、「ゆらゆら」や「暮らし」のような曲に集中して注目が集まってくることに、あれ?って思うことがあって。自分はメンバーとのがっつりバンドサウンドも良いと思っているのに、周りからの反応はイマイチだったり、歯痒い気持ちがあります。だったらErlend Øyeみたいに名前を変えて、全部やったらええんやって。バンドの野望としては、海外のレーベルと契約できるくらいのことをしていきたいです。
ー向こうのほうが、正当に評価してもらえる?
よくお世話になってるエンジニアの方に、「YeYeバンドの音楽性は外国のほうが受けるんじゃない?」って言われたのがきっかけなんですけど、自分もErlend Øyeほどではないですが、メルボルンに行ってみたり、リトアニアに行ってライブをしたり、いろんな土地に行って音楽をやるのが楽しくて。自分達はどうあがいても日本ではYeYeバンドとしては評価されないというか、自分が思ってる位置には行けないのかなって思う時期もありました。
ー今は変わってきている?
今は色々一周回って、今年出した『30』を聴いても「暮らし」が自分の中で確かに一番スッと入るというか。もしかして自分が得意なのはこのオーガニックな音楽なんじゃないかって、やっと自分の気持ちと合致してきたんですよね。なので日本での活動は本来求められてきたYeYeを楽しみつつ、その分名前を変えて海外ではYeYeバンドとしてゼロからやる気持ちでやるのが面白いんじゃないかなと思っています。
■ ゴッチの背中を見て思ったこと
ー少し振り返って、デビュー当時のお話も聞かせてください。YeYeさんが音楽で生きていこうと思ったきっかけはなんだったんですか。
直接のきっかけは10代の頃に出た閃光ライオットですね。中学校時代にバンド組んでいて…まあ「バンド組んでいる」って言っても、公民館でお菓子食べているくらいなんですけど(笑)。
ー(笑)。
その友達がラジオの『スクール・オブ・ロック』を聴いてて、(閃光ライオットに)出たら100万もらえるらしいでって言ってきて。その時凄くカメラが欲しかったので、33万あったらカメラ買えるやんって思い、軽い気持ちで応募したらファイナリストまで行かしてもらって。その時にゲストでいらした BEAT CRUSADERS のベースのクボタさんに「デビューしませんか」って声をかけてもらったのがきっかけです。
ーということは、最初はバンドで声をかけられたんですね。
そうなんです。でも、ドラムの子は特にデビューする気はなくて、そこで最初は「ひとりかぁ」って思ったんですけど。高校生の頃にアメリカ人やった担任の先生から、「Do what you Love,Love what you do」って言われたのがずっと自分の中で引っかかってたんですよね。「心の底から好きなことをして、めっちゃ好きになる努力をしなさい」って意味なんですけど、声をかけられた時にその言葉がワッて入ってきて、私は歌を歌いたいのかなって思いました。そもそもまさか私の曲がそんなに評価されるとは思っていなかったし、そんな風に見てくれる人がいるんやって思って。そこに先生の言葉が追い討ちをかけるように入ってきて、やってみようかなって気持ちになったんですね。
ー当時はバンドが今より勢いがあったように思いますが、ソロでやっていくことに対してどんなことを思っていましたか。
ソロを始めると決めてから、その年はお誘いいただいたライブは全部出ようと思って、結構な数のライブをしてたんですけど。男社会というか、共演で対バンすると男性のバンドばっかりで。その時は若くてとがっていたので、女一人でギターを抱えていくと凄く舐められてるなと思いました。そこで“やってやる感”はちょっとありましたね(笑)。
ープレイリストにも女性のソロアーティストが何名もいらっしゃいますけど、そうしたメンタリティに惹かれているところはありますか?
無意識やったんですけど、今言われてみたら Karen O とか Adrianne Lenker とか、確かにそうですね。 Feist も Broken Social Scene に参加したり、男バンドの中でグッと引っ張っていくボーカルですよね。そういう音楽やアーティストは、無意識に好きなのかもしれないです。
ーYeYeさんはインディペンデントでこの10年やってきて、一番の財産って何だと思いますか。
一番の財産は、しんどいこともめっちゃ楽しいことも全部根こそぎ自分のものにできたことですかね。
ーどこかにマネージメント所属したいと思ったことはないですか?
そういう時もありました。今は自らスタッフを呼んで一緒にやる形になってますけど、最初は当たり前ですが全て自分でやっていて。ツアーを18ヵ所周る時には飛行機や新幹線も自分でブッキングし、物販と楽器を抱えてライブ会場着いてからも、自分で準備して歌って物販もやってサインしていて。全部をやりすぎて、飛行機のチケットを二重で予約しちゃったこともありました。でも、今思えば、それを経験してたほうが周りへの感謝も凄く持てます。
ーなるほど。
そのことを一番実感したのが Gotch & The Good New Timesでコーラスをさせていただいていた時で、ゴッチさんのライブは凄いスタッフの数なんですね。物販には物販の方がいて、飛行機チケットの手配から楽器の準備までしていただいて、私は歌って帰るだけっていうのが初めてでした。でも、ミュージシャンとしてのパーフェクトな形としては一番そこに集中するべきやし、これが自分の理想とする形なんだって。ゴッチさんのそれまでの努力が素晴らしいわけですけど、売れてるってすげーって思いましたね。売れることが目的で音楽をやっているわけではないけど、私も自分の音楽をもっと突き詰めてやるためにも、ここまで頑張って駆け上がろうってゴッチさんの背中を見て思いました。
(『DIGLE MAGAZINE』編集部 文:天野史彬/写:後藤倫人/編:久野麻衣)